本当はコワイニンジャスレイヤー
はい、今日はプロダクトノートはお休みして感想タイムです。
皆さん、読んでますよね、ニンジャスレイヤー。
今日はそんなニンジャスレイヤーの最新のエピソード【デイドリーム・ネイション】に
あまりにも危険な違和感を覚えたのでブロッゴ行為をすることにいたしました。
新エピのネタバレを含むので、気になる人は個々でリターンお願いします。
あともちろん、これらの感想は俺個人の妄想と推測ですので、その辺りはご了承ください。
このエピソードはいわゆるロンゲスト・デイの後の話ということもあり、
その描写はアマクダリ・セクトによる管理社会的支配が確立しつつある世界を描くところから始まります。
01のエーテル風と空に浮かぶ黄金立方体から始まり、
クローンのハイデッカーの導入と逮捕権と限定的な即時裁判権の付与、
善良なる市民による相互監視社会と保護の名目で強制収容所へ送り込まれる市民。
どこをどう切ってもヤバイ世界が入念に描かれ続けるのです。
そして後半は強制収容所内が舞台となり、
そこでまず叩き込まれるのが感情をすり減らす映画への喜怒哀楽表明装置の描写です。
教室めいた大部屋で机をあてがわれ、他の収容者と共に、正面のスクリーンに映し出された映画を観る。「喜」「怒」「哀」「楽」の漢字が書かれた4つのボタンが、各々の机の上に配置されている。この漢字は日本における感情の4エレメントの定義を表しているのだが……「オマエサン」女優が泣いた。25
— Ninja Slayer (@NJSLYR) 2016, 1月 26
すると相手役のハンサムな男が涙を堪え、「俺を止めないで。カラダニキヲツケテネ」ぷいと横を向いた。女は震えながら、抱きしめたい思いをこらえる。クロマはボタンに手を伸ばし、準備した。この映画の有名なクライマックス。ここで女優が言う。「アナタ」。そのとき、「哀」の字幕が表示された。26
— Ninja Slayer (@NJSLYR) 2016, 1月 26
アナタ!実際に声に出す者もいた。失敗すると「失敗者」の立て札が立ってしまう。クロマは「哀」のボタンをタイミングよく押した。もはや身体で覚えてている。クロマは悲哀をおぼえ……ゾッとして我に返る。条件反射だ。嗚咽している者も実際いる。映画は滞り無く進行する。やがてスタッフロール。27
— Ninja Slayer (@NJSLYR) 2016, 1月 26
恐ろしい装置です。感情を強制し、さらに、喜怒哀楽の4つに限定する。
感情を条件反射にしてしまう同調圧力が形になったようなものです。
これらはあまりにも危険なディストピア描写でありながら、
その実、現代日本、あるいは全人類の現代社会への猛烈な皮肉ともなっている、キレッキレの情景です。
しかし、この描写の真の恐ろしさは、ここから少し先のツイートで本当の牙を剥きます。
「イッちまったか」「どっちがいいんだか……」抑揚の少ない会話を聞きながら、クロマは廊下を歩き、スシ室に向かった。係官が「オツカレサマデス」とオジギした。クロマは苦々しく思った。そしてベルトコンベアの前の椅子に座った。流れてくる皿を取り、食べた。マグ……いや、タマゴだ。 30
— Ninja Slayer (@NJSLYR) 2016, 1月 26
この、『マグ……いや、タマゴだ。』はニンジャスレイヤー初期の名エピソード、
【レイジ・アゲンスト・トーフ*1】のワンシーンであり、その哀愁とトンチキさから
さながら合いの手のように使われている台詞でもあります。
案の定、ここでも実況に『マグ……いや、タマゴだ。』が並びました。
しかしこれと、先ほどの喜怒哀楽装置との差は、如何程のものでしょうか。
もちろん強制されているわけでもないし、
本人たちの自由意志でやっているんですからまったくの別物と言えるわけですが、
それでも、シリアスなシーンにこの描写を入れるだけでそれこそ条件反射のように合いの手が並ぶというのは、
冷静に考えるとゾッとして我に返るのには充分なように思えます。
はたして、中の人物と外の自分たち、どの程度違うのか。
ニンジャスレイヤーの作者たちはこのあたりのコントロールが非常に巧妙で、
勢い任せに見えながら、物語そのものをどう見せるべきかを高いレベルで把握していると思われます。
そしてその刃の鋭さは、このエピソードの最後にもう一度顔を出します。
このあまりにも重苦しい閉塞した世界の中で登場人物が希望を見出すのは、
かつて偶然見かけたニンジャのイクサ、フジキド・ケンジの戦う姿なのです。
そのニンジャの戦いを希望の火種として、彼らはその感情抑制の世界に挑む決意をして第1セクションは終了です。
そしてこの描写は同時に、これまでフジキドの戦いを追い続けてきた読者にとっても、
まったくフジキドを知らない人物たちの目からその戦いは無駄ではなかったとことが語られるのも相成って、
エピソードに充満する閉塞感の中の希望そのものとなって光をもたらしました。
物語としてはこれで道が開けたわけです。
おそらくこの内外の同調も作者たちの意図通りでしょう。
しかし、決定的に違うのは、ニンジャの存在です。
これが自分が感じた違和感の正体でした。
ニンジャはニンジャスレイヤーの世界の一般人*2にとって、
ドラゴンや吸血鬼のようなファンタジーの存在と語られるものです。
それが実在し、戦っていたからこそ、彼らの心の支えとなりうるのです。
日常的にニンジャのイクサを見ている読者からすればほとんど意識しない話となっていますが、
それだけに、作中人物との差がハッキリと出る箇所でもあります。
一方で、このエピソードの描写で読者が感じていた閉塞感は、作品の中だけの話でしょうか?
おそらく違うでしょう。
多かれ少なかれ現実にその足音が聞こえるからこそ、
ただ無邪気に笑い飛ばせない薄ら寒さを感じるのだと思います。
特に第三部におけるその手の描写はその色合いを強くしています。
しかし現実には、ニンジャも、フジキド・ケンジもいない。
アマクダリのような黒幕もいない。
その事実とどう向き合うのか。
それこそが真の恐ろしさです。
ニンジャスレイヤーは、フィクションなのです。
しかし自分は、それを乗り越えさせるのもまた、フィクションの力であると信じています。
世界の絶望を乗り越える力を支えるのは、フィクションです。
現実にニンジャはいなくても、『ニンジャスレイヤー』はある。
それが答えだと言える日が来ると、俺は信じています。